創作にまつわる言葉の解説 <3>

第三回目は「才能」と「天才」

 

 ※昔の記事にもチラッと書いたんだけどこの2つについて改めて・・・

 

創作界隈においてこの言葉達は人生を左右せしめる最終兵器である。またそういう状況で使われてきた歴史が・・・(嘘

 

全っ然気にするこた~ないですよ、ただの言葉です。

 

この2つを使う人の中で、ちゃんと自分の中でしっかり意味を確立して使ってる人がどれくらいいるのだろうか?

 

「お前は才能が無い」なんて言う人いるけど、きっと分かってない。なんとなくのイメージで使ってると思われる。だから気にする事は無い。自分の判断を一番に信じろ!と言いたい。

 

 

 

よいですか、「才能」ってのは

 

 

歩幅です

 

 

 

有る無しではなく

 

 

大きさです

 

 

よく遺伝子的な差まで才能の枠に含めて語る場合も世間ではありますが、遺伝子的な差はDNAの差だから・・・夢は売ってないしお金で買えないんだけど売ってる人がたまにいるのと同じアレよ

 

才能は皆有る、大きさが違うだけ!

これが私の結論。

 

・・・歩幅の大きい人と、小さい人が同じ道を同じ時間歩いたとする。どちらが先に行けるか、辿り着けるか?

いわゆる世間で才能が有るといわれる人たちは歩幅が大きいのです。ただそれは元々大きい人もいれば、小さかった人もいます。大きくするための鍛錬や、道しるべとなる先達、教え導いてくれる人生の先輩、打ち込める環境等様々なことがあって結果、世間でいう

「あの人、才能あるよね」状態になっているのです。

 

「天才」はさらにその先の状態であります。つまり、天才なんて居ないのです。才能の大きい人がその道で成功した場合なんかに「大安売り」「大特価」みたいな謳い文句みたいな感じで貼り付けられるシールみたいなものなのだ。

才能が小さかった人は「私は皆の○倍練習した」とか言うよね、大きい人がその状態だといわゆる「天才」になりうる確立は高いと思われる。

たまに天才子供がメディアに出てくるけど「子供にしては~」ということですから、そんでもって売り込んでる親がいますから・・・基本的にね。

 

私は才能は小さめだったけど執念深く絵を描いてるから、今でこそ村一番の腕前にはなったと思ってます。

ちなみに絵を描くのが好きになったキッカケは幼稚園時代、たまに絵を教えに来ていた絵の先生(画家なのかなんなのか謎、白髪の優しい眼差しの人だった)がいまして、その日は絵本の読み聞かせの後、絵の中の世界を創造(視覚的な意味)しで描きましょうというね。

 

で、「長靴を履いた猫」を保母さんが読んでるのを黙って聞いて(絵本の挿絵は見せない状態で読み聞かせ)、読み終わってから画用紙が配られてクレヨンで猫を描いた。長靴履いて、他にも物語の中で傘が出てきたから猫に持たせたりした絵を描いた。絵の先生は園児ひとりひとりの元を回ってそれぞれに感想を言うの、その時、褒めてもらってそれがうれしかったんですよ。とてもうれしかった。

 

このひとりひとりに話しかけるってなかなか機会ないじゃない?家庭と違って幼稚園や学校でイチイチそんなことしてたら埒があかないよね普通はさ

 

だからその状況も相まって6歳頃の私には非常にインパクトのある出来事だった。そこからたまに自発的に絵を描くようになった(幼稚園時代は絵を描くより油粘土で遊んでるほうが好きでした)。

 

でも特別上手いわけじゃなくて、小、中学校では学年内で絵の上手い人っていえば他に上手い人はいたしね。せいぜい学年10番以内くらいの実力だったと思います。それでも他の科目なんかだとポンコツですからね、私は・・・ハハハ・・・絵を描く一点に注ぎ込んだのも高校に入ってからだし

ちなみに高校時代の美術は選択科目で1年生時分だけだったんだけど通信簿で5もらったことないし担任との二者面談で「お前ちゃんとやれば5とれるだろう(そっち系の部活にいるんだし)」とストレートな小言いわれたけど、私はクラスで唯一制作中の絵を持ち帰って家でも描いた上での通信簿3とか4だから!ちなみに美術の先生は公募展に勝手に作品出す人で、私が2年に成った時にどっかで賞もらって賞状を担任伝で受け取ったという。通信簿の評価なんて信じちゃいけないというかあの先生の真意が謎である・・・何の絵を何の公募展に出したのかすら私は知る由はなかった。

 

それでも好き嫌いなくというか、色んなモノを好きになって描いてきたから今はそれなり、自称・村一番くらいの気持ちではいます。結局、絵が好きってのにも色々あって、好きなジャンルが狭い人もいるしね。バストアップの女の子の絵ばかりとかさ、アレはね個人的に「ドヤ絵」って呼んでる、そういうジャンルとして

 

 

才能を大きくする一番最初の大事なのは好きになることだと私は思います。やらされてはじめた事と好きではじめた事では執念が違うわ!・・・違うのか?

創作にまつわる言葉の解説 <2>

第二回はこれ

 

「実際に見て感じて表現しなさい(モノを作れ)」

「本物を見て描け」含む

 

歳を重ねた人ほど言う言葉だな~という印象があります。なぜ人は歳を重ねると若い世代にこう語りたがるのか、この謎、そして具体的に何を指し示しているのかを解説します。

 

インターネットの普及で近年は簡単な資料の入手にさほど面倒がない、この現状が殊更に人生の先達にこれを言わせている気もする。「俺たちの時代は苦労したんだ」と、「だから俺たちはお前らには負けないんだ」と

 

まあ感情的な部分はおいて置きます。はっきり言って他人からの批評で一番何の役にも立たないパターンの代表がこの感情的批評と、気分で言った言葉の二つです。個人的に理論が無い批評は、言ってる方も実はよく分かってない、真理まではたどり着いていないのに語っていると判断している(笑)

 

・・・話を戻す

 

これは先に言ってしまうけど「五感で感じろ!」という事です。

では何故、五感で感じる必要があるのか?

 

これはですな、特に空想で創作しててさくさく描けるな~って時と、筆が迷う時がありまして、これは「描く前にイメージをしっかり(強く)持つ」かどうかがに影響される現象です。で、この”イメージを持つ”状態を生み出すのに「リアルな経験」があると非常にこの上なく捗る!という、これはネットの普及であちこちで絵の上手い人がつぶやいていたりする「絵を描く上で大切なことのひとつ」です。

 

なので私だったら

「モノを作る時ってね、イメージをしっかり持っていると捗るから、そのために五感で感じておくといいよ!」

と言うね。

 

で、水を差すようだけども、戦争を知らない世代が戦争映画つくったり、宇宙に行ったこともないのに宇宙ものを~、江戸をしらないのに~etc

 

世の中 正しいことは人それぞれ、何か自分のなかで信じれるものがあればいいと思う。また、見えないものを信じる人ならば、五感で感じる以上のものを感じ取って創作の糧にすることできるから、本物をみて描くことでもっと魅力的な作品が作れるんじゃないかな?

 

後はこの「五感で感じて創作せよ」とは直近である必要はないぞ!というね。自身の思い出ならいつの時代のでも同じだけ効果がありますよ。

 

 

 

 

 

創作にまつわる言葉の解説 <1>

新しいカテゴリー「創作界隈言語解説」を作ったのでそのエントリーを書きます。

 
第一回目は「スランプ」の解説

 

ジャンル問わず創作活動をする人たちが口にする専門用語の筆頭に「スランプ」があるけど、あれって実際なんなんだ?と、子供が言葉を覚えるように誰かが使っていた言葉をただ使いまわしているだけで、実際の所、皆さん曖昧に使っているな~と感じていて、機会があればBlogのネタとして書こうと考えていた。

 

ちなみに wikipedia にはこうある

  • 不調の同義語。
  • スランプ(スポーツ):スポーツに於いて、チームや選手が通常の成績よりパフォーマンスが低下した状態が続く期間のこと。

 

まあ、日常的な言葉でいうと「上手くいかない」って事なんだけど、どうもそれだけじゃない感がある・・・。その一番の要因は、スランプの解決には「脱する(脱出)」という言葉が使われている点にある。

 

普通、上手くいかなかったり失敗した等の対義語は「上手くいった」「成功した」であって誰も「脱出した」なんて言わないし聞かない。上手くいかないだけじゃない何かが潜んでいる気にさせられる、この「脱する(脱出)」こそが事態を困窮させている言葉のマジックの種なのだ。

 

じゃあ「スランプ」ってのは何か?といえば、それは単純に

「実力不足を痛感している状態」のことです。

 

上手くできていたことが出来なくなったというのも創作やスポーツにおいては

実力不足でしかないと思う。それは単純にその種目の実力という意味だけではなく、それを取り巻く環境の調整能力の不足だったりもするでしょう。そのことが分かってしまえば スランプなんていう言葉とはおさらばですよ。

 

大晦日

今年はいろいろなことがあった年でした。

 

やりたいこと、やるべきこと、未来に向けて進めておくこと、今年中にと考えていたことの内7割近くはやれたような気がする。というかまだ細々とやっててたぶんこのまま年越して行くのだ

 

つい最近やっとこさ新しいWebページの準備に取り掛かり、来年1月中はそこにちまちまと形にする作業の予定

 

そこでちょっと前のイラストを再スキャンして整えてるんだけど、やはり手書きのイラストは絵の具が褪色したり飛んだりしてちょっと悲惨、こればかりは水彩絵の具をメインに使ってるから仕方ないのでデジタルでブラッシュアップしてる。これがまあなかなか地味に時間が掛かる。デジタルでこのレベルまでやれるだろか?なんて考えながら Webで見栄えのするように手を加える。

 

2016年はデジタルイラストに力を注いでいく予定、どこまでのレベルに行けるのかちょっと期待しつつもアナログの絵というか線というか、デジタルでは出せない何かが潜んでいるのに早速気付いてしまった。そこはどうにかしなくちゃいかんと思う。

 

そのひとつの答えは分かってて

海外の上手いなと感じる派手な仕事してるイラストレーターさんで、アナログである程度描いたものをベースに(たぶんスキャンして)その上にデジタルで色を塗っていくスタイルの人をチラホラ見かけてて(日本にもいらっしゃいます)、多分そういうことなんだろう。デジタルってのはこの世には存在しないものだから、それはつまり命がないってことだから絵そのものの力が無いのでしょうね。

 

最初にこの手法を知ったときはなんだかトンチンカンだなと漠然と思った、無駄に感じたのだ。でも今は多分わたしもその手法がデジ絵製作の最終ルーティーンになると予感してる。というか、ほぼ確信している。

 

テクノロジーの進歩で知識と時間があれば過去の偉大な画家にならびうる絵を、アナログではそうやすやすとは創り得ない作品を生み出せる…けれども魂が入らない、そこでやっぱり手書きに頼るんだなと

 

まあいくらでもやり直しが効いて寿命がないわけだから、勝負の意気込みがなくなって気迫も入らないしとか考えるといろいろマイナス面はあるけれど商品としてのイラストに絵画的に必要な要素が不可欠かと問われたら、そうでもない。他人の作品で飯食う人もいるわけで・・・。

 

これは絵に限った話じゃなくて純粋に夢中になって創作活動をしている人がある時期に、今後もつづけていくかどうか決断するひとつのポイント、壁だよね。信じて進んできた道の先の世界が案外ガッカリするものだったという壁

 

器用な人やずる賢い人は置いといて、馬鹿まっしぐらで他に目もくれずやってきた人間はもう前に進むしかない。ガッカリしながら前へいくのだ。そのうちいいことあるかも知れないしね。てなわけで来年も前へ、未来へ、ひとつひとつ一歩一歩目標に向かって行きたいと思います。

 

みなさんよいお年をお迎えください。

 

2年経ち

今朝、最後の表紙イラストをメールで送り

月刊地域情報誌のお仕事はこれにて一区切りとなりました。

 

2012年、震災後の焦燥感があった時期に水彩でカラーイラストを本気でやってみようと、それまで漫画家アシスタント、商業誌漫画家(一瞬でしたが)、文芸同人誌に漫画で参加する等、公私共にずっと黒白で描いてきた ”絵描き道” から彩色の世界へと進みました。それから間もなくして旧友からの紹介で デザイン事務所の社長さんとの縁がはじまり、一昨年の今頃でしょうか表紙のお仕事をいただき 2015年12月号の表紙までの2年間を担当させていただきました。

 

振り返ると、2年は長くもなく短くもない・・・結果的には”自分の水彩イラスト”を模索していた私には丁度よい時間だったと思います。

 

毎々月 気に留めて見ているかたはあまり居られないでしょうが、わたしは都度、目的意識と実験をもって取り組んでいました(これは自由に描かせてもらえる環境のおかげなのです)。その為、プロとしてはあるまじき状態ですが・・・納得できる月とそうでない(試みが失敗におわった)月のイラストが存在しています。

 

最初のころは黒白の名残りと水彩の融合を念頭に部分的にGペンとカラーインクを使っていて、頭の中のイメージとしては浮世絵(版画)を目指す完成系としています。それを3枚描いた後、最初の意識の変化がありました。

 

「過去にとらわれず、得意を辞めて水彩絵の具本来の長所を引き出すように使おう、水に頼ろう」

 

こうして春になると色を薄く薄く塗り重ねることで細密な写実的な表現に成功、画面の中の空間に光を捉えることができる様になりました。それから数枚つづけてまたその後も飛び飛びこの手法を ”ベーシックなスタイル” として使いました。

 

ただこのままでは自分の絵ではないなと…

細密な写実絵画というのは積み重ねの絵であり、修練と時間に裏切られない絵であると私は捉えていて、言い換えると描き続けていれば誰しもがそれなりに辿り着け使いこなせる技法なのでそこを問題としたのです。

 

2014年の年末、得意と技法を捨てて更に形も捨てることにしました。形を形と捉えないように描くというちょっとどうかしている訳ですが…これは、描き慣れている人は手癖で絵が描けてしまうのですが、それを捨てるという理論の極地です。「人」や「木」等ありふれたものを描くとき、描き慣れた人は対象をあまり見ずに印象と頭の中にすでにある「人」や「木」のイメージで筆を進めている状態があるはずです、そしてそれに気付く時があるはずです、そこで視界の中の色だけを意識するように…結果これは大失敗でした(苦笑)

 

絵画として追求するならまだしも ”イラスト”のしかもお仕事なのでこの道を進んではいけないなと反省して、ベーシック・スタイルで時間を稼ぎつつ次に向かう目標に ”形を捨てよう” とする前の月に描いた一枚、これがまあよく描けていたのですがどうやって描けたのか自分で理解できていなかったのでその ”感じ” の再現を試みました。

結果的になんだったのかというと(いくつか前の記事に描いてありますが)

 

”肩の力を抜いた” 絵です。

 

細かく言うと…集中しすぎない、一生懸命にならない、技を(意識的に)使わない。

そういった ”意識の変化で描けるスタイル”(しかも時間がかからない)、ベーシック・スタイルに続きこの手法も引き出しの一つになりました。「スケッチのような絵だね」と言われてたしかにそうだなと…これが2015年春

 

ひとつ得てまた捨てての繰り返しで、まだまだ自分の絵というものは別のところにあるなということで次に形をもっと簡素にしてしまおうと、いわゆるディフォルメですね。これは ”肩の力を抜いた” 絵の時に木の葉を茂った部分を丸で表現してうまくいった手応えの糸を手繰る目論見がありました。それ+形だけでなく ”色の簡素化” もひとつの目的にしました。

 

水彩画は基本、白色を使いません。紙の白を使うし塗り残しを生かすというのがありますが実際には白い色や、まぶしいほどの光や光の反射は白く眼に認識されるそこに色を着けよう。私のなかので感じる色を光に着けよう…と成って今までとは一風違う、イラストって感じのイラストが出来上がりました。

 

形の色を簡素化し、光に色を着ける。

 

これが大成功、面白い仕上がり

一年前の自分が想像できなかったイラストが描けてました。まあそれでも自分の絵には後一息・・・そこで ”自分のなかで感じる色” の選択に方向性を持たせることにしました。といってもこれは描いている最中の ひらめき でした。こうして最後の3枚は自分の絵、イラストになったなという確固たる手応えを得ることができました。

 

2年は長くもなく短くもない・・・結果的には”自分の水彩イラスト”を模索していた私には丁度よい時間だったと思います。

 

こうした機会をいただけた事、充実した2年間でした。

ありがとうございました。

 

関係各位の皆様に深い感謝を

 

 

 

 

 

 

疑問

「100」が最高、「0」が最低な訳です、基本的に

 

クッキー等残していない動画サイトを開くと音量が「100」な訳です、どこもかしこも、んで「音デカッ」って必ずなるんだけどさ、初期値を最高に設定しないでデフォルトは「50」にしようって所はないのかしらん

ネット内のアレコレってすごく一方的で、ネット内だけの人間関係も油断するとそうなっちゃう、すぐ「いいね!」押しちゃう、ごめんね。

 

Ustのゲームってジャンルの配信一覧見ると皆さんもお気づきでしょうが、海外の人はゲーム画面よりも”ゲームをプレイしている人自身を写している”ことが非常に多く、これは文化の違いか知らん

でもいいなって思うんだよね。