散歩に疲れる日々

住居の周りを歩き近くのドラッグストアに通う日々が過ぎて、イオンに行けるようになってすっかりコンビニを利用しなくなって久しいここ数ヶ月。25年ぶりに入ったダイシンがいつの間にやらアイリスオーヤマに買収されていたことに驚き、店内の様相が一変しておりました。

ここ半月でだいぶ歩ける範囲が拡大して、体調も良く過ごしています。

店内を見て回りつつの1時間と歩きに徹する1時間では後者の方が疲れます。徹すると想定しより短時間で歩き切ってしまうのでちょっと考えて...

「そうだi pad持って散歩に行こう!」

ということに今更ながら気がついてここ数日は写真を撮りつつ散歩しています。

背景を描く参考写真を撮りながら歩く、1時間で50~70枚ほど写真が溜まります。半径2km弱の範囲でも資料になる建物などがたくさんある。

フィルム写真時代では考えられない量の写真を撮影できる事の凄さも感じています。

この調子で少しづつ外出できるエリアを広げていきつつダイエットと糖の消費に努めていく所存であります。




夏の話

今年は暑過ぎる夏ですね。

気温が下がるまで漫画製作はお休みしています。

ネームをアレコレいじりつづけていました。新しいアイディアや発見に溢れ詰め切れていない。そんな中、物語って何なのか、面白いとは何か・・・ある要素が絶対不可欠でそれが入っているか(描かれているか)どうかなのだという事にネームを描き直していて気付いたのでした。そして有頂天な気分のまま7月と8月の間を過ごした。

それにしても暑いのでパソコン作業はお休みしてメモ帳にボールペンで細かなメモを取っている毎日です。

とにかく悔いのないように徹底的に推敲をおこない作品を仕上げようというのと年内完成のつもりではいます。

 

 

話は替わりますが…今日は病院の日でした。

約25年の引きこもり生活に終わりが来た6月、欲しいものを自分で買いに行ける喜び、いつもアレコレ悩んで結局妥協してネットショップで割高な商品を買っていた日々は終わったのです。まだ時間はかかると思うけど遠くへ行けそうな気もしています。

 

そんな気持ちに反し HbA1cの値が今年は悪くて…2月の7.0から6,7月は7.4になって栄養指導を受けて気を付けていたのに本日HbA1c 7.9

いやあ正直なんで?って感じで、7月から体重は3キロほど落ちてます。お盆休みにコロナになって38度超えの高熱が数日続き、熱がすっかり落ち着くまで一週間ほどかかりました。その間あまり食事をとれずにいたので体重は落ちたのですが、A1cが激増するという摩訶不思議現象…7月30日の栄養指導後の先生の提言通り本日お薬が増えました。

糖を尿を通して体外に出す薬だそうで、3キロくらい痩せるらしいです。いいお薬みたいです。(低血糖に注意する必要があります

 

何だろうコロナで身体がおかしくなったのかな?正直原因が分からない。

心当たりがないA1cの激増に心身共にがっくりちゃんです。食後血糖値が高いってわけでもないんだけど、尿は正常、腎臓の数値はギリ、8月はアイス食べるのかなり抑えたんだけど、お菓子も食べてないんだけど何でだろう…。

 

帰りのタクシーの運転手が70代?もっと上?の高齢者と思われる方で、すごく態度の悪い人で、客載せてため息ついたり生返事だったりなんだこのジジイは!と感じていたけど最後の方で気が付いた。この人体調悪いんだなと、なにもしてないのにはあはあしてるし仕事や休んでほしいものですね。こわいこわい。

 

今日は一日気持ちが落ち込んだ日だったのでブログを書いてみた。

…糖尿が悪化しないように更に注意しないといけない。

 

 

 

姓名判断

漫画のネームがほぼ書き終わった。

最初は28ページ×3の構想だったがそこからネーム第一稿で96ページになり

加筆修正を加えていくうちに膨れ上がって32ページ×5の160ページになってしまった!

もう少しどうにか短くできないかとも思うのだがまあいいやと言うことで・・・これから背景(学校とマンション)の3Dモデリングとクリーチャーのモデリングをしてボチボチ描き進めていこうと思っている。作るのに時間はかかるが一度用意すれば後々楽だし流用できるしであとで楽になる。学校は母校の小学校をベースにモデリングをネームの間に少し進めてある。

 

ネームの絵も練習がてらそこそこ書き込んでいるので、そのまま原稿に流用できるコマもあるしそこん所はデジタルの利点である。で、新し絵柄もネームを描いているうちに形が定まっていい具合になった、これなら素早く描けるなといった絵柄になっていて今後の人生を前に進める作品になると予感している。

 

と言うことで?絵柄も変えたし?人生の転換期な気がしてるし?偉人の姓を借りてるのがやっぱり気になっていたし・・・で、思い切ってペンネームについてWebで姓名判断をして今日の午後一杯あれこれ悩み試行錯誤した結果たペンネーム変えます。さらば芥川慶一・・・。

全然使う機会がなかったけどお世話になりました。私は生まれ変わります?

一を外したら抜群に運勢が良かったので(全体の画数によリマス)名はになりました。

まあとはいっても今描いてる漫画が何の賞にもひっかかからないようだったらもうどうでもいい・・・果たして使う機会が来るのだろうか・・・?

 

今年の夏は暑くなるのかな・・・気になるのはそっち!

 

 

 

 

 

プライム

Amazonで注文すると必ずプライム一ヵ月無料体験の項目が出る。

毎回それをかわし続けて早数年・・・22年末のこと、年内にどうしても手元に欲しくて注文を急いでいた時うっかり無料体験をタップしてしまった。

その一年前の春頃、プライムについて調べたところ三日と経たずに郵便受けにAmazonからDMが届いていた。私にはそれが逆効果で避けていたのに痛恨のミスだった。一度タップしたらもう無料体験は始まってしまい取り消せなかったので、思い切って各サービスを利用してみた。

そうして一月が経つ頃に今までいくらの得をしたのかというのがサイトで示された。いくらだったかもう忘れてしまったが一年分の入会費よりは多かったと思う。

それからはサービスを存分に利用している。特に使うのはプライムビデオだ。毎月かなりの本数の映画を見る。といっても途中で見るのを辞めてしまうのが大半だ。映画というのは10本見て1本あたりがあればいいものなんだなと学んだ。

それにしても年会費以上の利益を得ていることにとても満足している。

 

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近況

 

 短編アニメを作ろうとシナリオ2本ができた所でもう一つ面白そうなシナリオが出てきた。アニメのコンテを描きつつ頭の中で組み上げていて、これは10分前後で描けるサイズじゃないなということでもう書くまいと決めていた漫画で描いてみるかとネームを描いた。最初にもう漫画は嫌だと思ったはは何時だったか…本当に漫画とは決別したくて何度目かの決意と新しい道としての短編アニメだったのだが・・・結局、今もまだネームを修正中である。全体の流れをザックリと描いたネームは一週間ほどでサクッと描けたがそこから細部を詰めている。完成すれば100頁の大作になっていて今まで描いたことのないサイズだ。

でもこれはとても良いぞ!という手応えがあり短編アニメは後回しにすることにした。

 

何故何度も辞めると決めたことをやってしまうのか?私は何事もすぐに諦めてしまう性格なのになあ・・・辞める事すら諦めてしまうのだろうか・・・。

 

売れる漫画を描いてる人の発言で「キャラクターが勝手に動きだして物語を作ってくれる」というような発言を耳にすることがある。最初にそのような発言を聞いたのは十代の頃だった。そんな事あるものか!!とずっと思っていたが45歳にしてその感覚を手にした。

───ということでネームを描き、絵柄も今までとは違って描きやすいモノに換えている最中だ。

 

具体的に言うと「キャラクターが勝手に動きだして物語を作ってくれる」というのは話す人の誇張もある。やっぱり基本的な道筋は自分で考える。

ただこのキャラクターならこの場面でどうするか?とか、どんなリアクションをするか?という部分について考えずともその様子が絵として浮かぶという具合である。

親しい友人にこんな話をしたら喜ぶだろうなとか、その時の笑顔が浮かぶといった様な感覚が架空のキャラクターで起こるという話

人それぞれ感じ方もあるだろうが私の場合は其れでした。

きっといい漫画になるから描こう。そんな最近です。

 

 

 

思い出つらつら

 何時でも思い出せる記憶と、普段はすっかり忘れている記憶があった。忘れていることも忘れてしまっていた大事な事。探したから見つかったものの忘れたまま人生終わっていたのかもしれない…。そのことを含め思いつくまま気晴らしに文章を書こうと思う。

 

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幼少の頃、絵を描くのは得意だがそれほど上手くはなかった。いつも自分より上手い人が何人もいた。それでも続けたのはいくつか理由があり、大きなものの一つは家庭の中に居場所がなかったことだろう。家族に心を開くことを辞めた出来事がいくつかある。とても嫌な思い出なので忘れていたが三十代にふと思い出した。詳細は割愛するがそこから”諦め”を身に着けた。

 

見つかると貶されるから絵を描くときは見つからないようにコッソリ描いていた。

小学校高学年になると表向きの将来の夢とは別に本当の将来の夢はイラストレーターたった。他の事もそうだった。本音というか大事なモノは誰にも教えなかった。汚されないように、傷付けられないようにそうしていた。

 

好意的だったのは幼稚園に来ていた白髪の先生(何かしら美術的な時間に外から来る人)祖母、中学時代の過程狭隘、そして何人かの友人。皆からもらった言葉は今も描き続ける支えになってるのかもしれない。

 

───上手い人がいても描いていればいつかは追いつけると思っていた。

中学校に入ると次元の違う”越えられない人”がいるんだと悟った。何かのタイミングで隣の席になった時にノートに書いてあった絵に驚いた。おそらく授業中に描いたその絵は線に迷いがなく描き直した跡がなかった。初めて他人の描いた絵にショックを受けてしまった。

次にその人の絵を見たのは多分…宿題?で描いた絵だったと思う。美術の先生に渡すところを美術室の後ろの方から眺めていた。ほんの数秒の間、目に飛び込んできた絵は配色センス、画面のバランス、完成度どれをとっても素晴らしくて感動した。その年、市のコンクールで初めて表彰状をもらった。6組では私とその人が入賞していたと思う。負けてないのかもしれない…少し前向きに考えた。

 

2年生も同じクラスで再び絵を見る機会を得たのは勾当台公園で行われた写生授業での事、自分の作品が仕上がったのでひとりぶらぶら例の人を探した。どんな絵を描いているのか見たくて探した。その人の後ろからそっと近づいて覗き込んだ。木の幹の陰になる部分に青を塗っていた。思いもつかない考えに強い衝撃を受け打ちのめされてしまった。決定的に実力の差がある。追いつける気がしなかった。

…もし将来同じ道に進んだら敵わない。色のある絵では敵わないからモノクロの世界→漫画という風に将来の夢は変化した。その子の将来の夢は知らんのだけど

 

それから初めて漫画を描いて週刊漫画誌のコンテストに応募した。他にも友人の勧めでゲームのキャラクターデザインにも応募した。自分の意志でやると決めてやり切って勢いづきその道を進む意思を固めた。

その後、高校三年生の春、小学校からの友人に良くない話を聞いた。幼馴染の複雑な態度に何があったのか追及することができずいやな予感に苛まれ、いつしか体調を崩し夏休み明けから学校に通えない日が増えてその話自体忘れていった。

そからは唯、漫画家を目指した。それすら失ってしまうとあの三年間が暗く救いようのない時間になってしまうと感じたから、中学二年生の時にできた夢を追うことにした。それともうひとつあの人の才能を超えることが目標になっていた。

 

二十代になると人に影響を与えて人生を変えてしまう出来事が重なった。人と関わるのが煩わしくなり、友人との連絡を絶った。徐々に人が嫌いになってしまった。他人との関わりを辞めてしまうと人は老いて落ちぶれてしまう。這い上がるには自分ひとりの力では足りない程に深く落ちぶれてしまう…最初からそうと分かっていれば人と距離を置いて生きようなどと思わなかったかもしれない。ただその時は、他人と距離を置いていこうという生き方を選んだ。人生最大の過ちだった。

 

大人になっても引きずった心身の不調はそこが出発点なのだと気が付くのに長い時間が過ぎてしまった…浮上は2018年。一月近くの入院生活から始まった。

退院前に個室で医師と看護師の方と行った面談で精神科を強く勧められたのも大きい。私は取扱注意の入院患者として腫物だったのだ。とはいっても退院してからは再び緩やかに落ちぶれて行ったのだが、厚意で声を掛けてもらい仕事が始まり、仕事が辛い記憶を蘇らせた。その記憶に毎日苛まれて参った…その思い出の出来事の中に自身の問題があるのだと知らせていた。向き合わなくてはいけないのだと強く意識した。覚悟を決めてそうしなければいけなかった。

仕事は1年程で完了し、その年の年末から新たな通院先を増やした。

日々自分と向き合う中で失っていた記憶を取り戻した…もっと早く気付いていれば今とは全く違う人生を歩んでいたに違いない…それでも現状が現実だ。

 

ともかく周りの人の厚意に感謝。それから懐かしい人が頑張っている様子が伺えるものをネットで見かけて、何故か力が沸いてきて頑張らなくては!と気力をもらった。歳を重ねるともう交流はない人でも同じ時代を生きた人の懸命さにこんなにも力をもらえるものかと感慨する。

 

考えが思いが至らず取り返しのつかない事になるとそれは心の深いところに根を張り意識せずともそれ以降の行動に影響を及ぼす。その都度ちゃんと向き合っていくことがとても大事なのだとおっさんになって理解したのでした。